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津曲 公二

伏見寺田屋の裏 宇治川につながる運河
伏見寺田屋の裏 宇治川につながる運河

京都 幕末の史跡名所巡り

幕末の京都で新撰組、大政奉還や戊辰戦争などに関係する史跡名所をまとめて巡るパックツアー(一泊二日)がありました。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」や「燃えよ剣」などを読んでいた筆者たちとしては、通常のツアーガイドとは別に歴史に詳しい講師も同行するので期待して二人そろって参加しました。

京都で先の戦争と言えば

わが国をあげての総力戦となった大東亜戦争は1945年になってようやく敗戦を受け入れることができました。京都は東京など他の都市と異なり、米軍による爆撃の被害はほとんど無かったそうです。ですから、東京大空襲や広島・長崎の原爆投下などの悲惨な体験は無く、先の戦争と言えば応仁の乱(1467年~1477年)のことになるのだそうです。さすがに千年の古都ですね、500年以上も前のことです。古都の歴史自慢としても面白く聞くことができます。筆者は戦後生まれですが、やはり両親から先の戦争について聞くことがありました。

九州南端の地方では

筆者の出身地である人口2万弱の鹿児島県志布志町(当時)でも、米軍機の空襲はあったそうです。軍需工場や密集した市街地などは無いので大規模な空襲は無かったとのことです。それでも実家には父だけが残り、母を含め家族5人は自宅から15KMほど離れた内陸部に疎開したそうです。というのは、志布志湾は米国軍隊の上陸地点という想定のもと防衛対策のひとつとして海岸から離れる措置がとられたからです。

疎開先での生活

知人の縁故で借りた農村集落の一軒家で、数ヶ月の疎開生活になりました。その様子は、姉や兄からよく聞きました。蜂に襲われてひどい目にあったとか、幽霊が出るという噂の洞窟を確認しに行ったとか、体験していない筆者にはほとんどがユーモラスに聞こえました。母は新参者としての近所付き合いや食料調達の苦労があったと思いますが、そのようなことについて全く聞いたことはありませんでした。東京などの大都会の悲惨な空襲体験などとは異なり、筆者の家族に限っては先の戦争の記憶はこのようなものだったと感じていました。

講師の先生は会津の出身

幕末、戊辰戦争(1868~1869年)のきっかけとなった鳥羽伏見の戦いの跡地に行きました。鳥羽伏見戦跡と刻まれたごくふつうの石標があるだけでした。先生の解説が無ければ、当時の状況は想像もできなかったでしょう。戊辰戦争で錦の御旗を掲げた官軍が勝ち、明治維新を迎えました。その戊辰戦争で最も激しい戦いになったのが会津戦争と呼ばれる会津藩での戦いでした。会津藩は京都守護職を任された経緯から、官軍である薩長勢に最後まで抵抗を続けました。そのため、この戦争の惨禍は現在もなお語り継がれているようです。

先の戦争とは戊辰戦争のこと

先生の会話の中で「・・昨夜は敵である長州の人と会ってきました」という話題がありました。「山口県の人」という言い方ではないのです。敵という表現に少し驚きました。もちろん、雰囲気としては和やかな冗談めいた言い方ではありました。「敵である」という言葉から、会津で先の戦争と言えば戊辰戦争のことであるという説明にも納得できました。

当時から既に150年以上の時間が経っています。戦争の悲惨な体験は今もなお語り継がれるのでしょう。それらは続くとしても、恩讐の彼方に新しい関係が開かれるのはいつになるのだろうと思わずにはいられませんでした。