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津曲 公二

「アメリカ第五列」津曲耕七・村山 有(共訳)愛國新聞社出版部 1941年8月発行
「アメリカ第五列」津曲耕七・村山 有(共訳)
愛國新聞社出版部 1941年8月発行

ドツグ式英語とは

父は大正時代に英語を学びました。当時の英語教科書にはカタカナで英語の発音がルビをつけてあったそうです。ルビはフォントがうんと小さくなります。だからdog の場合には「ドッグ」とルビをつけるべきですが「ッ」のようにさらに小さなフォントは、当時の印刷技術では難しかったのでしょう。「ドッグ」ではなく「ドツグ」になってしまう。つまり、現在と異なりネイティブのような発音を学ぶ機会はうんと少なかったということを言いたかったのでしょう。
発音はともかく、聞く・話す・読む・書くで言えば父は英語を読む・書くことは苦にならなかったようです。

忘れられぬ言葉 Every parting may be last.

あるとき、田舎に住む遠い親戚がわが家を訪問しました。そもそもわが家が人口2万人弱の堂々たる田舎なのです。それでも、鉄道(・・当時は国鉄です)や乗合バスなどの公共交通はそれなりに充実していました。親戚はさらに田舎に住んでいたのでしょう。父は抵抗なく「田舎の親戚」と言っていました。父も母も久しぶりの再会だったのでしょう。親戚はかなりの時間をわが家でくつろいだ後、帰路につくことになりました。筆者は玄関を出てわが家の門でお別れをするつもりでした。ところが、父はバスターミナルまで一緒に見送りに行こうと言うのです。筆者の顔が「え?」と言っていたのでしょう。そのとき父がつぶやいた言葉です。

Every parting may be last.

当時、筆者は中学生でした。その英語を何となく雰囲気で理解しました。

アメリカ第五列 父の翻訳書

軍隊の行進は四列縦隊です。五列目は存在しませんから、第五列とは表面に出ず敵に紛れ込んで味方を有利に導く人や部隊、スパイ、諜報組織を指しています。
同書が発行されたのは1941年8月です。同年12月に帝国海軍は真珠湾を攻撃しましたから、事態は日米開戦に向かっていた時期です。父は内務省に勤務していました。仕事にも関係があるので、このような翻訳を出版社から依頼されたのでしょう。父の書棚にこの本があることは小学生のときから知っていました。筆者は5人兄弟ですが、出版経験があるのは兄弟の中で筆者だけです。父の思い出の品として筆者が保管することは、皆が賛同してくれました。この翻訳書の内容と日米開戦の関係については、別の機会に書いてみたいと思っています。

戦火を避け故郷に戻る

母は一人娘でした。故郷に住む両親が東京に住む娘一家の安全を気遣っていました。確かに翻訳書発行から4か月後に戦争が始まりました。といっても、東京大空襲が始まるのはそれから3年後の1944年のことでした。これは後になってわかることです。当時、田舎にいた両親としては居ても立ってもいられない気持ちだったのでしょう。母はやむなくという感じで父に退官を勧め、父もそれを受け入れたのです。
田舎町は戦争中も東京大空襲のような被害は無かったようですし、戦後は家族もひとり増えました(・・筆者のことです)。安全な生活のために田舎町に戻ったことは正解だったのです。

母の涙

しかしながら、人口2万人弱の田舎町に父の適職はありませんでした。母の実家は山林業を営んでいました。地元で有力な実業家だった祖父は、父のために様ざまな仕事を斡旋したのでしょう。どれも適職では無かったと思いますが、父からこれについての不満などは一切聞いたことがありませんでした。
父が亡くなってから、母との会話でしばしば一家そろって田舎に戻ったのは良いとしても、父の適職が無くなったことを悔いて涙を流していました。でもそのまま東京に住んでいたら、家族すべてが存在しないのです(・・一家が住んでいた青山のアパートは空襲で全焼したそうです)。それを話すと少し安心して気持ちが落ち着く、そのような感じでした。

筆者はエッセーその他の投稿を続けています。色あせた父の翻訳書が手元にあります。夜半にパソコンに文章を入力しながら、ふと想像することがあります。父も夜半に辞書を片手に翻訳に取り組んでいたのだろうと。