津曲 公二
市中に建つロシア正教教会
ホテルの周囲を散策するとこのような教会をいくつか見かけた
(サンクトペテルブルグ ロシア)
評論家の寺島実朗氏がテレビ番組で、ロシアのウクライナ侵攻についてじつに明快な解説をされていたそうです。以下は、ロゴの開発チームメンバーによるその発言要点です。
ウクライナ戦争に関して
これについて、開発チームのメンバーは次のような感想を述べていました。
ロシアは政教分離が出来ないままでいる。世界から立ち遅れた文化未発達の国である。いずれ消滅する運命にある。日本は世界で最も早く政教分離を実現した国である。
ロシア国民の教育程度が低いためにものごとを理解する能力が欠けている。わが国は江戸時代から教育に熱心だった。それ以前、戦国時代に渡来したポルトガル人の宣教師たちもわが国に文盲が極めて少ない(識字率が高い)ことにびっくりしたと伝えられている。
ロシアに対してウクライナは、無血革命で政治に宗教との関わりがあってはならないことに国民全員が目覚めた。ロシアでは野党政治家で投獄中のナワリヌイですら、侵攻を是認している。つまり、国民そのものが「プーチンの宗教戦争」を支持している。
以上がメンバーの感想です。以下は筆者によるものです。
これは本エッセー第135回でも述べたように、戦国時代を平定し平和な時代に導いた英明なリーダーたちの功績でした。そもそも鎌倉幕府は宗教と政治が一体化した天皇制を廃し、政治は武家政権が掌握しました。天皇は宗教(神道)のみを分担することになり、ここでわが国は初めて政教分離が実現しました。信長・秀吉・家康は、まさにそれぞれの政権のもとで段階的に宗教が政治に関与することを断ち切っていきました。戦乱の時代に終止符を打ち、平和な時代のためには宗教の政治への関与を許さないことを政策として推し進めたのです。世界の先端をいく政治でした。これにより、260年にわたる「徳川の平和」が実現しました。
徳川の平和の次の時代、維新政府(1868年)は神道の国教化を進めました。神道が他の宗教とは異なる特別な公的な扱いを受けることになったわけです。これにより、わが国の国家神道は昭和の軍部暴走につながり悲惨な敗戦を迎える結果になりました。そしてわが国の信教の自由は、敗戦(1945年)によるGHQの指令によってもたらされることになりました。同時に政教分離も実現しました。徳川の平和は約260年、神道の国教化から信教の自由まで77年、その後今日まで77年が経ちました。
戦国時代に「天下布武」の旗印をかかげ戦乱を収め平和を目指したのは、まず信長でした。その事業は道半ばで完結しませんでしたが、軍備をもつ宗教勢力の完全な武装解除を行いました。全国平定は次の秀吉に託すかたちになりました。秀吉は宗教ではバテレン追放令(1587年)によりキリスト教の勢力を削ぎ、全国平定を成功させました。しかし、秀吉の時代は長続きしませんでした。ここまでを見ると、信長の偉業が目立ちます。国内の宗教勢力から武装を完全に取り去って政治に介入できないように決着をつけました。世界的にこのように徹底的な政教分離を実現したのはわが国だけでした。「わが国の政教分離は信長のおかげ」、これは井沢元彦氏の名言です(「逆説の日本史10」 戦国覇王編 2006年 小学館) 。
わが国は世界にまれな政教分離を実現しています。さらに我われの生活に宗教は自然なかたちで文化のひとつとして存在しています。例えば、大晦日の除夜の鐘、新年の初詣で、子どもの成長に合わせたお宮参り、家屋新築や設備導入などに際しての地鎮祭、安全祈願など多くのイベントがあります。すべて神道または仏教によるものです。このような日本人の生活に溶け込んだ宗教由来の文化はわが国の宝です。
ところが、悪徳宗教に惑わされ家庭崩壊やそこから政治家暗殺までやってのける状況がわが国にあります。統一教会については宗教法人の認定取消しも検討されているようですが、行政や政府の役割と、我われが無関心であることは許されません。何についても「個人の自由」として無関心を装うこともまた危機を招くもとになります。日本人の生活に溶け込んだ宗教由来の文化を守り、さらに発展させていくために無関心ではなく、わが国の今後にとって何をすべきか何ができるかを考えることが欠かせません。