• クリティカルチェーン TOCによるプロジェクト・マネジメント

津曲 公二

高野山 金剛峯寺にある壇上伽藍 (和歌山県伊都郡高野町)
高野山 金剛峯寺にある壇上伽藍
(和歌山県伊都郡高野町)

不運や困難にも悲観することは無い

これに類する諺はいろいろありますが、人生何があるかわからないという言葉には、悪いことだけではない、良いこともあるというきわめて建設的な響きがあります。わが国にはこのようにバランスをとった考え方が多いように感じますが、同時に背景にある素直で楽天的な考え方も見逃せません。何より感じるのは、ここにも複数の神さまが登場することです。何しろわが国には神さまが八百万も存在します。八百万とは数えることができないほど多いという意味です。これだけ多いと、捨てると拾うということに限らずどのような役割でも八百万のうちのいずれかの神さまが分担できます。我われの神さまはそれぞれの役割についての専門家なのですね。不得意なことは他の神さまに任せることもできます。

この諺の英訳は

ネットで検索すると、いくつかの英訳のうち次のようなものが見つかりました。

When one door shuts, another opens. (ひとつのドアが閉じても、別のドアが開く)

この英訳には神さまは全く登場しません。キリスト教のように世界の多くの宗教では神さまはただひとりだけです。全能の神であり、世界の全てをつくった造物主という存在です。わが国のように八百万もの多数とは全く異なるようです。従って、捨てるだとか拾うだとかまたは筆者のように役割分担とか、そういう考えとは全く異なるのでしょう。この点について、八百万の神々の「神」とは異なる訳語を使うべき、キリスト教において「神」は誤訳であると次の本に書いてありました。
「地球日本史1」 西尾幹二(責任編集) 発行2000年12月 産経新聞ニュースサービス

キリスト教のゼウス(造物主)を「神」とする翻訳は完璧な誤り

わが国に初めてキリスト教を伝えたのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルでした。これは歴史教科書に必ず書いてある有名な史実です。1549年薩摩半島に上陸し、彼はその後平戸や京都を経て山口で宣教活動をおこないました。ここでの真言宗の僧や民衆とのやりとりについて「デウスの移入をめぐる紛糾」と題する一節が前掲書にありました。その記述によると、キリスト教の造物主デウスの存在を知らせるために当初はその訳語を「大日」としていたそうです。これは真言宗にある大日と同じものを使ったわけですが、少し立ち入った問答をするとお互いに話がかみ合わない。そこで、デウスの訳語をあれこれ模索したが、最終的には訳語はつけず原語のままデウスと呼ぶことにしたのだそうです。「これは正しい選択だった。決して日本語で呼ぶべきではなかったから」、前掲書の結論です。

その後、このデウスという訳語が変ることになりました。約250年後の幕末から明治にかけての聖書の翻訳事業から「神」という新しい翻訳語が生まれました。ここで前掲書の著者はこのような「誤訳が未だに訂正されていないことが大きな間違いであり、相互理解の妨げになっている」と述べています。

宣教師を派遣したポルトガル国王の野心

ザビエルはキリスト教の宣教師としてわが国に渡来しましたが、背景には世界制覇を目的としたポルトガル国王の野心がありました。宗教を前面に立て布教を隠れ蓑にして宣教師を派遣し信者を増やす。その後、軍隊を派遣しその国を乗っ取ろうとする作戦でした。当時のわが国の信長、秀吉と家康などの英明なリーダーたちはその魂胆を見抜いていました。また、派遣軍に対抗できる強大な軍事力も保有していました。国王の野心を的確に見抜いていたのはわが国だけでした。そうでなかったアジア諸国は植民地化され、フィリピンなどはスペイン国王(当時 フェリペ2世)の名前を国の名前にされてしまいました。

政治(貿易)と宗教(布教)の抱き合わせ作戦

戦国時代にポルトガルから輸入された武器(鉄砲)は、武将たちには必須の戦略物資でした。時代が下るにつれて武器に限らず貿易は拡大しましたが、ポルトガルやスペインはキリスト教の自由な布教を条件にしたのでキリスト教の信者は増えていきました。政治的な影響が無視できなくなって秀吉の時代に(1587年)、バテレン追放令により宣教師を国外に追放しました。その後、家康は貿易のため布教を黙認していましたが、政権内部にも信者が増加したことに驚き、禁教令で信者に改宗を迫ることになりました(1613年)。ポルトガルやスペインとの貿易による経済的利益よりも国家の安全と政治的な安定を重視する政策を断行しました。これは見事に成功し、260年間も続く「徳川の平和」を実現することになりました。

一貫して政治と宗教を分離したオランダの対日政策

オランダは初めから、貿易(経済)のみのおつき合いでした。わが国にキリスト教(オランダは新教)の布教を貿易の条件にすることはありませんでした。経済と宗教を完全に分離し、わが国の政治に宗教(キリスト教)を関与させる意思が無かったので、長崎のオランダ商館は幕末まで存続し相互の貿易が続きました。

政治と宗教を初めて分離した武士政権

古代においては宗教と政治はセットでした。鎌倉時代になって源頼朝が天皇から政治権力をとり上げて天皇は宗教(神道)だけを受け持つことになりました。わが国で政教分離を初めて実現したのは鎌倉幕府ということになります。さらに戦国時代になると軍事力をもつ群雄が割拠し戦乱の時代を迎えます。

この時代、戦乱を引き起こしたのは強大な群雄である戦国大名だけではありませんでした。寺社(宗教)勢力は戦国大名に劣らぬ軍事力をもち、宗派間の激烈な宗教戦争を繰り広げました。その一例として、天台宗と法華宗との大規模な紛争である天分法華の乱があります(1532~36年)。これによる京都の戦火の被害規模は応仁の乱(1467~1477年)を上回るものだったと言われています(出典 ウィキペディア 法華一揆)。このような宗教勢力との戦争状況を収束させたのは信長でした。

わが国の政教分離を完結させた三人のリーダーたち

信長は宗教が政治に絶対に介入できないように国内の武装した宗教勢力を壊滅させました。いわば宗教勢力の完全な武装解除をやったわけです。注目すべきことは政治に介入しない宗教に信長は寛容であったことです。秀吉は先に述べたように、まず宣教師たちを国外追放しました(バテレン追放令 1587年)。家康は政治の面では戦乱に終止符をうち全国を平定しました。宗教ではキリスト教を全面的に禁止しました(禁教令 1612年)。

このような英明なリーダーたちのおかげでわが国は宗教が政治に関与することのない社会がスタートしました。まさに文明国としての政教分離の原則が打ち立てられることになりました。とはいえ、当時から約400年が経った現在のわが国の政権与党の一角に宗教団体を背景にもつ政党が組み込まれています。政教分離を目指して遂にそれを完結させた三人のリーダーたちがこのことを知れば、どのような思いをもつのか興味深く感じます。