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津曲 公二

志布志城の復元模型(鹿児島県志布志市)お城サミット開催時に訪問(2019.2.23)
志布志城の復元模型(鹿児島県志布志市)
お城サミット開催時に訪問(2019.2.23)

多様性という価値観をもつのは日本だけ

八百万の神々はわが国多様性の象徴です。一神教の世界では神さまは文字通りひとりだけですが、わが国には八百万の神さまがあり、さらには仏教もあります。これはわが国の多様性を示していますが、大事なことは他者の意見や存在を認めることです。他者の異なる意見や存在そのものを認める日本の文化は世界に珍しい貴重な存在と言えます。わかりやすい例のひとつが天動説と地動説です。一神教の世界では森羅万象が一元的に構築されることになります。そこでは天動説と地動説のように対立する二説は許されません。わが国でしたら、対立する二つの説があっても違和感無く受け入れます。そのうちわかるだろう、これで終わりです。実際の問題としてどちらでもよいことは誰も気にしません。いいかげんと言えばそれまでですが、異説を唱えるために死ぬ覚悟は全く不要な世界です。

仏教伝来 先端文明も一緒にやってきた

このような八百万の神々の世界にさらに仏教が加わります。583年、聖徳太子の時代です。当時の仏教は、宗教というよりも先端文明(知識、技術、政策など)も一緒に束ねたものでした。聖徳太子としては既存の神道との対立や摩擦は覚悟の上で、先端文明を受け入れるほうに大きな魅力があったのでしょう。両者はその後共存することになり、江戸時代には、神仏習合の安定した社会になりました。ただ、そのような安定した社会になる以前の戦国時代には、ポルトガルやスペインによる侵略的な中世キリスト教がわが国に押し寄せました。

日本はなぜスペインの植民地にならなかったのか

15世紀の大航海時代にまずポルトガルとスペインが海外に進出し戦争と征服により植民地化してきました。両国による「世界領土分割(デマルカシオン)」は有名ですが、ともに「キリスト教の布教と一体化した世界征服事業」を展開し、その尖兵となったのが宣教師(バテレン)でした。ところがわが国に渡来した彼らはこれまでの中南米のようにかんたんに日本を植民地化できないとわかりました。戦国時代のわが国は世界でも最強レベルの軍事大国だったからです。そこで、彼らは軍事侵攻がダメならキリスト教徒を増やせばよいと作戦を変更します。

民衆への布教はまたたく間に拡大しました。相次ぐ戦乱で疲弊した民衆にとってバテレンの説く言葉はすんなり受け入れられたからでしょう。仏教の僧侶は何をしていたのかと、筆者は疑問に思いました。しかし、当時の僧侶はバテレンのように民衆向けの布教プログラムは無かったのだろうと推測します。僧侶と異なり、信長・秀吉・家康はバテレンの布教活動の背後にある魂胆を的確に見抜いていました。大名の中には、南蛮貿易や奴隷売買の大きな利益に釣られてキリシタン大名になり、支配する領国の全ての民衆に強制的にキリスト教徒にする大名も現われました。このような大名が増えれば、わが国も危ういことになったでしょうが、聡明な指導者たちのおかげで助かりました。彼らは、海外情勢についての洞察力と果断な行動力がとくに優れていました。

スペインの明国侵略を牽制した秀吉の朝鮮出兵 

太閤秀吉の朝鮮出兵は、老いによる妄想や精神錯乱とする説も未だにあります。少なくともこれまでの「常識」として、秀吉の朝鮮出兵は愚行だったという理解が一般的になっています。ところがわが国の歴史家によると、これは妄想などではなく計画的な行動だったとする見解が出るようになりました。「戦国日本と大航海時代」(2018年)において平川 新氏が整然と解明しています。つまり、バテレンたちは次のように考えたと説明しています。

・・日本は中南米のように軍事的に制圧したうえで布教するやり方が通用しないので時間がかかり過ぎる。明国は人口が多くしかも日本のように強大な軍事力は無い。ここに布教して多くのキリスト教徒を得ることができれば、日本よりも手間がかからず征服できそうである。日本征服は明国の力を使ってその次にやればよい。

これに対抗して秀吉は、次のように考えたとしています。
・・明国がキリスト教国になりスペインの勢力圏になることを恐れた。そうなると日本の防衛上きわめて危険な状況になるからである。そこで、スペインよりも先に明国を制圧しようと考えた。つまり、朝鮮出兵の目的は朝鮮ではなく明国にあったのです。

侵略的ポルトガルを排除するためのキリスト教禁止

家康の時代になるとスペインの国力は減衰し、明国征服などの恐れは消滅しました。しかし、ポルトガルは交易を拡大しバテレンたちは変わらず布教を強く進めていました。もちろん、布教の最終的な目的は、布教地の征服であることは明白でした。江戸幕府は「キリスト教の禁止」を国策として強く打ち出しました。オランダのように布教はせず、交易のみに専念すればポルトガルも入国禁止になることは無かったでしょう。しかしながら、布教の衣の下に征服という鎧が見えた以上、キリスト教の禁止は当然の政策でした。

 

侵略的中世キリスト教から国を守った戦いについて、江戸幕府までを述べました。次回は明治政府の愚かさ極まる仏教弾圧などを述べることにします。